「そっちの見える世界はどうなってるの?」――。
私たちは日々、五感からたくさんの情報を得て生きています。なかでも、目の見える晴眼者は情報の8~9割を視覚で得ているそうです。
そんな視覚を取り除いた時、世界の捉え方はどう変わるのか――。自分にとっての当たり前を離れてみる本です。どうしてもすぐに読んでみたくて、kindleで購入しました。
結構話題になったため、本書で書かれたテーマをもとに、私も娘もファンのヨシタケシンスケさんによる『みえるとかみえないとか』という絵本にもなって、発売されています。
目に見えない人は世界をどう見ているのか
■見えないことと、目をつぶることは違う
タイトルにあるように、視覚障害者の方は世界をどのように見えているのかについて当事者インタビューなどを通じて追究しています。本書ではまず、目が見えないことと、視覚を遮ることは異なると伝えています。
見える人が目をつぶるのは、単なる視覚情報の遮断で、そこで感じられるのは欠如であるとしています。
著者が〝どう見ているのか〟と問うのは、「視覚抜きで成立している体」で見えてくる世界のあり方、その意味のことだとしています。
■三本脚の椅子の世界
例えば、四本脚の椅子と三本脚の違いです。元々脚が4本ある椅子から一本抜いたら、その椅子は傾いてしまいます。しかし、そもそも3本の脚で立っている椅子もあり、脚の配置を変えれば、三本脚でも立てます。脚が一本ないという〝欠如〟ではなく、三本がつくる〝全体〟では、どうなのか。見えないからこその世界の捉え方、体の使い方があることについて、本書では紹介しています。
ただ、実際には「見えない」といっても、障害の度合いなどによって、人それぞれであることを指摘しています。
見た記憶があるのかないのか、全く見えないのか、それとも少し見えるのか、視野が狭いのか、色が分かりづらいのか。
また、同じような「見えなさ」でも、聴覚を手がかりにしがちなのか、触覚を手がかりにしがちなのか、あるいはまた別の方法をとるのか。
「見方」は、人によって異なることも強調しています。
こうしたことも踏まえ、本書では「空間――見える人は二次元、見えない人は三次元」「感覚――読む手、眺める耳」「運動―見えない人の体の使い方」「言葉――他人の目で見る」「ユーモア――生き抜くための武器」と、各章ごとに見えない人がどう世界を見ているのか迫っています。
<見どころ・感想>
■〝推理しながら見る〟視覚障害者の美術鑑賞
第4章で、ソーシャル・ビューについて触れています。見えない人の美術鑑賞といえば、触覚を用いた鑑賞を思い浮かべますが、ここで紹介されているのは違います。
作品の前に皆で立ち、その作品について語り合いながら鑑賞します。
例えば、「一つ目は雨が降っている様子、二つ目は人々が水に飛び込んでいる様子。飛び込んでいる水はあんまりきれいじゃないです」。
このように、ひとまず見える人が観た物を言葉にしていきます。しばらくすると視覚障害者の参加者も質問をします。
ただ「見える人による解説」ではなく、「みんなで見る」。思ったこと、印象、思い出した経験などをみんなで対話します。
まるで、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)に似ていることから、こうした鑑賞方法について、本書では「ソーシャル・ビュー」と呼んでいます。
また、見えない人は、見える人の言葉を聞いて、作品がどのようなものかをイメージを膨らませているといいます。視覚障害者の美術鑑賞は〝推理しながら見る〟ようだとしています。
本を読んだ感想などを伝え合うのも、似た感覚なのかも知れません。
■「見えないからできること」
本書の第5章の最後で、著者は障害者を〝それができない人〟と捉えるべきではないことを指摘しています。注意しなければならないのは、社会の側に障害があるからといって、それを端から全部なくしていけばいいというものではない、ということです。「パスタソースを選べないこと」は社会モデルの定義にしたがえば「障害」です。しかしこの障害をなくすことは、見えない人のユーモラスな視点やそれが社会に与えたかもしれないメリットを奪うことでもあります。
「見えないからできること」に注目し、〝見る〟ことそのものを問い直しています。
伊藤 亜紗
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